回廊を抜け、十字架やステンドグラス、そこに向かって左右に展開する椅子が見えた。
光がほとんど射し込まず、薄暗い。
湿っぽい臭いや何となくムズムズする感じから、埃やら石やらが足元に散乱しているのだろうと予想できる、というくらいだ。
そこへ一歩踏み出した瞬間―――
サウナの中のような、むっとする暑さが、3人を包んだ。
ハッとして上を見上げれば、橙の塊が揺らめいていた。
それは異空間があることを示す揺らぎだが、陽炎にも見えた。
ツタで外からの光がほとんど遮られている中、その橙の明るさは異様だったし、明らかに元々は白かったはずのこの場に異質なものであった。
「ビトレイ!」
カラハが叫ぶ。
勿論聞こえているわけはないけれど。
キャシーはじっと橙を見て、
「危ないわね」
と一言呟いた。
それは当然アデューイにもカラハにも聞こえていた。
その雰囲気からして、中のビトレイの魔力が危険域に達しつつあることが分かった。
「キャシー…」
アデューイはそっと言う。カラハを気遣っているというのもある。
「とりあえず…ビトレイを捜し出さないと。下手にぶっ壊すとビトレイには永遠に会えない」
だがキャシーは普通にそう言う。
カラハもアデューイも、少し顔色を変えた。
ちなみに異空間を外から壊すことは、多分アデューイでも可能。
"異"空間だから、この世界に本来なら異質のもの。
それが安定して"在る"には相当の力が必要ということで、逆に言えば不自然なものをなくすことはそう難しくないということだ。
「"γιŵε με α βιτ οø ηελπ, βετραψ'σ ηεατ? ι ωιλλ λιγητ υπ τηε ωαψ το ηιμ ωηιχη ι ωαντ το χρεατε"」
キャシーは長い詞を唱えた。
その詞に反応する気配、それは大量の魔力を必要とすることを示していた。
「ふう…」
キャシーが息をつくと、キャシーの目の前に光る道が現れた。
揺らぐ光のその道は、ビトレイがいるらしい橙にむかって伸びている。
「これは…?」
「名付けるなら熱と光の道。あの橙と同化できる熱で覆った光の道、あの異空間の中を照らすための光ね」
キャシーの説明は半分くらいしか分からない。…ぶっ飛びすぎていて。
「…要は、この道に乗ればあの中に入れるってこと?」
眉間に皺を寄せたカラハが聞くと、キャシーはにっこり。
「そういうこと。さ、行くわよ」
入る前にカラハとアデューイ、勿論自分にもしっかり防御魔法をかけてから、
「"χομε ον, ποχκετ οø μψ ποωερ"」
レベルUのビトレイをおかしくしないように、魔力軽減の魔法をかける。
またイラセスカをつけて下げてもいいのだが──何があるか分からない異空間でそれはさすがに怖い。
この魔力軽減魔法はイラセスカと同じく、魔力を『どこか』にためておく方法で行われる。
イラセスカはその内にためるが、この魔法では物理的な器がない。
そこで、大抵は『球』型の結界の中にためておく。
結界なので、なんとか内部にあるその力を抑えようと働くのだが、大体限界がある。
それはまさしく風船に例えられ、空気を入れ続ければどんどん膨らみ、やがて破裂するのと同様。
この結界も、最初はビー玉サイズだったのが、時間が経つにつれてどんどん巨大化していき、最終的に容量を超えて一気に術者に魔力が戻ってくるようになっている。
抑える魔力が大きければ大きいほど、その巨大化していく時間は短くなる。
だからキャシーは普段はこの方法を取らない。
でも、今は。
――短時間だ、と分かっているから。
アデューイもカラハも、キャシーの唱えた魔法によって、彼女の頭上に浮かんできたシャボン玉みたいなものが気になったが。
しかもそれがどんどん膨らんできているのでとても気になったが。
キャシーから放たれる『圧力』が弱まったことから、大体何が起こっているか想像できた。
「じゃあ行くわよ」
右腕を伸ばしながら唱えた魔法。
レベルUのビトレイの異空間が窓の向こうだとすると、キャシーが唱えたのはその窓にかかるカーテンを体に巻き付けながら覗く、という手法だった。
ちなみにどこまで奥があるかわからないのでカーテンが適度に伸びるように。
「なんでそんな魔法知ってるの?」
アデューイが呟くように言うと。
キャシーはちょっと肩をすくめて口元だけ笑った。
「編み出したんじゃない?キャシーだし」
カラハが言うと、キャシーはふっと寂しそうに笑い、
「魔法書にある詞通りよ」
そっと踏みこんでいくと、むっとする暑さとは言っていられない熱さが迎える。
うねる熱。
炎が見えているならともかく、見えない場所に熱の塊がある。注意して進まなければそこに突っ込んでしまう。
キャシーの防御魔法があるとはいえ、自ら危険に突っ込んで行く必要はない。
しかし異空間の中、視界が橙の中、キャシーは臆することなく進んでいく。
アデューイもカラハもキャシーを先頭についていくだけだ。
「──あれ!」
進み続けていると、いきなりカラハが指さした。
遠くに見えるのは間違いなくビトレイだった。
背を向けているけれど、間違いない。腰まで届く長い茶色のストレートヘア、少し猫背の後ろ姿。
キャシーはふっと息をはいた。
その顔を見たアデューイには何となく分かったのだ。
「キャシー、ビトレイがどのあたりにいるか最初から分かっていたんじゃ…?」
キャシーはそれが何か?と取れる顔をしてアデューイを見る。
「このタイプの異空間なら中央部に作り手がいることは明らか」
そしてカラハに、
「そんなに近付いて行こうとしないで。気付かれたら面倒」
しかしこのキャシーの言葉に食いぎみで、
「ビトレイ!」
カラハは叫んだ。叫んでしまった。
キャシーはふわぁ、と頭を背中側にのけぞらせた。
そしてカラハの声に全身をびくっとさせたビトレイは、恐怖を浮かべてゆっくり振り向いた。
その顔、その姿、は。
「──ビトレイ…?」
カラハもアデューイも、思わず呟く。
瞬間、ビトレイの目が大きく見開かれ、絶叫した。
「来るなああぁ──────」
そしてその言葉は、周りの炎と連動した。
一気に燃え上がり、凄まじい熱が3人を襲う───
「…いい加減にしなさい!」
キャシーは大声で叫んだ。
「"ιχε ισ øροζεν ωατερ! τηε σολιδ στατε οø
α συβστανχε υσυαλλψ øουνδ ασ α γασ ορ λιθιυδ. συππρεσ τηισ ηεατ, ανδ τεαρ τηε σπαχε οø ηεατ. νο ονε μυστ δαμαγε ιτ νεŵερ!"」
聞いたこともない詞の組み合わせ。
そして恐ろしく長い魔法の詞。
アデューイとカラハが、何をキャシーがやるつもりなのかと思わず息をとめたとき、それは起こった。
身の危険を感じるほどの熱気が一気に消え、肌に感じたのはむしろ冷気。
オレンジと陽炎の空間にいたはずが、瞬く間に元の世界──
――いや、白と静寂の世界。
はぁっ、と大きな息が聞こえて、高い位置にキャシーがよろめくように降り立ったのが見えた。
その吐いた息が白くはっきり見え、そしてゆっくり消えていく。
…キャシーはどこに乗ってるんだ?
とアデューイは茫然と見上げていくと…
「氷……?」
白い煙に見えたものは、明らかに下に下がっていく。これは冷気だ。
「そ…そんなことって…」
カラハが口をぱくぱくさせる。
寒さのせいなのか、あまりの衝撃のせいなのか、口がうまく動いていない。
「ひぃっ…――」
ビトレイはそう奇声を発して、尻もちをついた。
キャシーから放たれる、他を圧倒するオーラにやられたのかもしれない。
だが…キャシーのこの圧力に慣れたアデューイもカラハも、声なく立ち尽くすしかなかった。
一面の氷。
炎に包まれていたはずの異空間を、建物を融かそうとするほどの高熱を、一瞬にして凍らせてしまったその圧倒的な力。
畏怖する以外にない、見たことのないその力――
「これは…」
ショックから最初に立ち直ったのは、アデューイだった。
「――氷の魔法」
キャシーは自分で作った氷のオブジェたちの一番高いところに降り立ち、そう言った。
さすがに息切れしていた…知られたくはない。
最高の魔法、氷の魔法。
何が「最も高い」のかと言えば――使用する魔力に他ならない。
他のレベルの魔法使いが使えないのは、ここに理由があるのではないかとキャシーは思っている。
長から氷の魔法書をもらって以来、家で読んだりしていたが。
何せ自分以外読めないとなれば自分で読み解いていくしかないし、実際に使える魔法なのかも確かめなくてはならなかった。
だが、家でアイスコーヒーに入れる氷を作るだけでぐったりしてしまう。
魔力付与の魔法よりよっぽど削られる気がする。
「だって──氷って…そんな…」
カラハが口をパクパクさせている。
何故かいつも何でも分かっているのよ、と言わんばかりの余裕たっぷりのカラハが、焦っているところを見続けている。
キャシーはぼんやりとそう思っていたが、アデューイもそう思いつつ、多分それ以上に動転していたかもしれない。
使えるはずないと言われていた、氷の魔法が、今こうして目の前に――
「キャシーは…氷が得意な魔法使いだったの…?」
アデューイはぽつりと呟いた。
「そのエメラルドグリーンの眼は、氷が得意だということを示しているのかい…?」
『何の魔法が得意なんだい』
そう、アデューイが聞いた時、キャシーははぐらかしたけど。
それはこういう理由だったんじゃないか?
しかし、
「私の…魔法より、ビトレイに…聞きたいことが…あるでしょう」
キャシーはなんとか粗い息をごまかしながらアデューイとカラハを見る。
またしても、キャシーは何も答えなかった。
「その頬の包帯…魔法が"剥げた"のをごまかしているんでしょう」
そしてキャシーの言葉通りにビトレイを見ると――
――顔中包帯。
それが今のビトレイの姿だった。