次の日から放課後、アデューイ先生の算数教育が始まった。 あまりに初歩的なことすら分からないキャシーのために、算数から始まったわけである。 もうびしょ濡れになるのはごめんだと思ったらしい。 自分の試験勉強はいいのかと思いきや、キャシーに問題を解かせる間はやれるから問題ないという。 「アデューイなんでそんな勉強できんの?レベル低いくせに」 お昼、シンディが言っていたのを思い出す。 3年生の中で一般科目の成績トップらしい。 レベルと頭脳はおよそ関係ないが、シンディらしい言い方である。残念ながら彼女が学年トップの成績になったことはないであろうことが予想できてしまう。 「できた」 「早いね、さすがキャシー」 アデューイはにこにこ笑って、キャシーに渡していた用紙を見る。 「…うん、基礎的なことはもう十分っぽいね。じゃあ応用問題出すから、頑張って」 教科書や問題集から問題を掻き集めてきたアデューイお手製の用紙。ちなみにまだまだキャシーは学院1年生の試験勉強に追い付いていない。 その過去問ばかりを解いて、解き方を覚えてどうにかようとしていたキャシーだったが、アデューイ先生にはそれが気に入らなかったらしい。 キャシーとしては、今回の部分だけを教えてくれたらよかったのに、とやっぱり思うけれど、それでも確実に理解が深まっていくのを感じてしまうと、これはこれで正しいのかも、と思ってしまう。 そしてそれはとても悔しい。 アデューイとしては、まるで野生の猫を餌付けしているような気分で、毎日図書館でキャシーと接している。 深入りしすぎると逃げてしまうのではないか、でも、ただこちらとしても無意味に餌をやり続けているわけではない、と少しでも他愛のない会話をしかけてみる、という感じである。 そしてそれはとても楽しい。 「本日の試験は、シンディ対カラハ」 えっ──という反応の後、皆が一気にわいた。 今日の実技授業でのことだった。実技の試験が開始されているので、同レベル同士の戦いが連日行われている。 そして今日の実技の試験で対戦するのは、と教師が発表した途端、生徒たちが一斉にわいたのである。 「いつもなら最終日にやってもらうんだけど、そのあたりだと筆記試験ともかぶってて、皆2人の試合見た後なかなか勉強に集中できないでしょ」 実技試験者を発表した教師はにやっと笑ってそう言った。 それに対して頷くのがほとんど。 皆を興奮させるほどの戦いをレベルV同士のこの2人はするというのか… 呼ばれた当のシンディは、 「あらー油断してたわぁ、もっと魔力も体調も整えてくるんだった」 と腕をストレッチしながら前に出た。 対するカラハは 「あら困ったわ。それじゃ勝っちゃうかしら」 と言ってすたすたと対戦台に向かう。 どちらもいつだって実技授業は模範試合をしているから、万事整えて臨んでいるに決まっている。 シンディは祖母の元へ行き来しているから、その分毎日削られてはいるが、彼女のレベルからすれば寝れば回復するくらいなものだろう。 壇上で見つめあう2人は、これといって戦闘態勢には見えなかった。 普通にただ立っているという感じで。 だからといってやる気がないわけではない。――むしろ逆だ。 キャシーの目でなくとも、臨戦態勢のオーラが見えた。魔力を集中したり、テンションを上げたりして高めている状態。 「はじめ!!」 瞬間、どちらの立っている場所からも発火した。 ――まさしく互角だった。 シンディの得意なのは火、熱、あとは仕い魔。 カラハは雷、熱、風。 何となく近い系統にあるせいか、その互角さも拍車がかかる。 結界が耐えているので、観戦者たちには熱はこないが、あの2人の近くはさぞ熱かろう、と握り締めた汗をぬぐう。 キャシーは初めて、真剣に戦闘を見つめた。 キャシーはどんな様子だろう、とちらりと見たアデューイから一瞬息を奪うほどに真剣だった。 好敵手。 最高のライバル。 言葉にするならそんなところだろうか。 お互い何も気にせず、使ってみたかった魔法を使う、それが暴発してもお互いが抑えてくれるだろうと思っているというような妙な信頼感もあるようだ。 本人たちは久しぶりにいい汗をかく運動をしているというか、大暴れというか… とりあえず楽しそうである。 両者一歩もひかない状態で試合は進む。 観戦する皆のテンションも引き込まれてかなり高く、手に汗握る感じで見守っている。 いきなり戦闘を開始した瞬間に、お互いがお互いの立っている場所に向けて火やら雷やらを放ち、同時に自分は飛びずさるという荒技から始まった、レベルV同士の見事な戦い。 ――制限時間いっぱい。 両者一歩も引かないまま、試験時間の終わりを迎えた。 教師が始まる前に『皆2人の試合見た後なかなか勉強に集中できないでしょ』と言っていた理由がよくわかる。 自分もあんな風に魔法を使ってみたい。 色々な魔法を編み出してみたい。 そう強く思わせる、試合を見せられたのだ。 様々なことが触発される、見事な試合。 初めて聞くような詞、工夫された詞の並び、おそらく低いレベルでは使いこなせないような大きな魔法… レベルVより低い生徒も、キャシーも、皆こうありたいこうなりたい、と思わせるような戦いだった。 ふたりとも選ばれるべくしてなった魔法使いだわ――… キャシーは複雑な心境で、目を閉じた。 1日が終わり、ここのところの日課である放課後の勉強会。 しかしさすがのアデューイ先生も、試合後の興奮冷めやらぬ、という様子で手がお留守気味であった。 キャシーは別に呆れたりせずに、アデューイの意識が戻ってきてキャシーに問題を解き終えたかを聞いてくるまで何もしなかった。 「ごめん、今日、なんか全然…」 アデューイは慌ててそう言って、キャシーがとっくに終えた問題のチェックをする。 「…レベルTって何人いるの」 よくできました、とアデューイが言い、次の問題を探そうとしていると、キャシーがいきなりそう言った。 「え?」 「あなたもいつか試験、当たるんでしょ。どんな対決になるのかと思っただけ」 アデューイは、ついに自分にキャシーの興味がきたかと思った。 その嬉しい思いが全面に出たせいか、目が思わず輝いてキャシーの方を見て… 「しょぼい試合なら見たくないだけよ」 そうですよね、とアデューイは思って。 「レベルTは15人いるよ。奇数だから、残り1人は先生か、或いはどこかからかレベルTの人を連れてきて試験を受けることになるんだ」 その1人になると、分からない人と対決になるのか、と少し哀れな気もした。 「んー…でも、逆に遠慮がなくていいって思う子もいるし、負の魔法使いと対決することを思えば、大したことはないかなぁ」 キャシーが言いたいことが伝わったらしいアデューイの言葉に、そう…、とキャシーは呟いた。 ここの生徒たちは…皆。 「僕はサンディと対決にならなければいいかなーなんて」 サンディって誰だっけ、と無言で問えば、 「あーえっと、1組の子だから知らなくて当然だよね、光とか雷とかが得意な子がいるんだけど。僕は水系だから、ちょっとやりづらいんだよね」 焦ったように笑って言ったアデューイに、 「そんな弱点晒してどうするの」 キャシーは冷たく言い放つ。 アデューイが何も言い返せないでいる間に、キャシーは参考書をつかんで開いた。 もうこの話に興味はないらしい。 ――けど。 「…キャシーは…実技の試験、誰と当たるの?」 ぽつり、とアデューイの声が聞こえた。 まさしくぽつりと聞こえたというのがぴったりな、聞き逃しそうな小さな声。 遠慮そのもののためなのか、かえって気にさわる。 「…普通に聞けばいいでしょ」 呆れたような声に、アデューイは思わず謝る。 そんなアデューイのさらに情けない声を聞いて、問題に目を落としたまま、ノートにため息をも落とす。 「…決まってないのよ。教師の誰か、らしいんだけど」 誰でもいいけど、と続けて数式を1つ解いた。 「教師なんだ…」 アデューイはほっと息を吐く。 「何」 安堵している意味が分からない。この数式以上。 「教師が相手なら、めちゃくちゃなことはされないだろうなと思って」 どうやらキャシーの身を案じているらしい。 …だが。 「さぁどうだか」 キャシーはぼそりと呟く。 アデューイがその意味を聞き返そうとした時、 「アデューイ、ここわかんない」 と教科書を指差す。 アデューイは慌てて、どこ?と覗き込んで教えることになった。 …聞きたかったのは僕なのに。
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